北村 光彦
TERUHIKO KITAMURA
代表取締役・プロデューサー
1955年7月15日 青森県中津軽郡西目屋村(世界遺産白神山地の表玄関)、旧三菱金属尾太鉱業所住宅にて産気づいた母北村安都子は、父北村義彦の勤務する会社のジープで弘前市内の病院へ搬送される。当時は悪路であった長時間に及ぶ道のりの影響で、15日未明仮死状態の北村光彦を出産。青森での生活は、東京日本橋に生まれ育った母にとって流刑の地のようであった。父も東京大岡山の出身であったが、元海軍中尉にとっては掌握するのに手頃な地であったため、名声をほしいままに得、この世の春を謳歌していた。私にとっては、白の世界と青の世界が織成す幻想的且つ神秘的な記憶を残す、湧き水のように透き通った美しい思い出の地となった。
1962年7月 群馬県伊勢崎市内に、4階建ての総合病院を設立した医師の伯父から、父が病院経営を任され、幻想的な青森から上州の空っ風の吹く埃っぽい伊勢崎市へ転居。 転校先は伊勢崎市郊外の農村地帯の小学校で、流動性の無い土着の在校生たちにとって、辺境の地、青森からの転校生は格好の餌食となる、筈であった。しかし、言葉も服装も彼らより綺麗な、いじめられても屈せず、東京言葉を使う外来種に面食らい、私に好意を示す同級生は皆無に近かった。お陰で小学校での楽しい記憶もまた皆無に近い。
1967年3月 小学校卒業と同時に父が市内に家を建てたため、都市部の中学校へ入学。ここでようやく平穏な学校生活を得るが、中学2年次激化する学生運動に感化され、仲間と共に闇にまぎれ大問題を巻き起こす。3年次にそれが発覚。しかし首謀者を含め皆名門の県立高校への進学が決まっており、将来を憂慮されお咎めなしを得る。
1970年4月 群馬県立桐生高等学校入学。当時は県下で3番目の受験校であったため、入学と同時に大学の志望校を書かされる羽目に。受験で疲弊していた私にとって、このことが遊び呆ける引き金になる。部活はスキーに決めていたが無く、スキーもやるよ、と騙されて山岳部へ入部。偶然にも美術が盛んな学校で、芸大へ進学した卒業生の石膏デッサンに衝撃を受け、漠然と将来について模索しだす。戦前戦中戦後の著名な弁護士であった祖父平尾東策が亡くなった後祖母は、日本橋から大田区大森にある明治初期からの祖母の実家に移り住んでいたため、休みのたびに居候を決め込み、新宿にある美術の予備校に通いだす。当時の新宿は街そのものがアートであるがごとくの空気に包まれており、サイケデリック、実験アート、アングラ演劇、風俗も破天荒破廉恥の新宿に身を置くだけで、アーチストになれた錯覚を引きずりながら、受験戦争最前線の高校での授業を尻目に、好きなことのみに没頭する。
1973年 父の経営する病院がある理由から解散に追い込まれる。苦労を重ね無事清算処理を終え、家屋敷を売り払い千葉県市川市行徳のマンションを購入し転居。私は3年生に進級したばかりであったため、卒業までの一年近くを、桐生市内にある、耳の遠いとても親切な老夫婦が営む、ひなびた木造旅館から高校へ通う。確かおばあさんの方はほぼ聾唖者だった。旅館住まいの記憶は薄れているが、今でも交流を絶やさない同級生や担任に随分世話になり、境遇とは裏腹に誠に楽しい思い出ばかりが残る。
1974年3月 桐生高校卒業。当たり前のように芸大に憧れ、当たり前のように受験に失敗し浪人生となる。卒業まで過ごしたひなびた老夫婦の旅館は後年火災により焼失。
1976年5月 父死去。病院の残務整理による心労から体調を崩し、3年間の闘病生活の末、享年55歳という若さでの旅立ちであった。
1976年9月 東京都美術館”現代美術展”入選。2浪目へ突入し、父を失い、夏休みに描いた絵が都美館の展覧会に入選。これをきっかけに子供向けの絵画工作教室を開く。手描きのポスターを近隣のケーキ屋、パン屋、スーパーに張ってもらい、生徒を募集。これが意外にも話題を呼びヒット。以降長い学生生活において小遣い銭と画材代には一切不自由しなかった。
1977年4月 桑沢デザイン研究所入学。墓場の父のすねをかじる芸術家気取りに終止符を打ち、デザイナーに志を立てる。中でも手堅そうで賢そうな工業デザインを専攻。
1979年4月 同校インダストリアルデザイン研究科へ進学。
1980年3月 同校卒業。
1980年4月 カシオ計算機株式会社入社。入社後一年足らずで、敵はデザイン部にあらず、開発部にあることを知り、筐体設計の親分をスケッチで口説くことに専念する。
1983年 朝日現代クラフト展入選。会社のデザインワークでは飽き足らず、水滴をモチーフにしたクラフト作品を作り、展覧会へ応募し入選する。
1983年 カシオで担当したパソコンPC1000が雑誌に取り上げられ、デザインを大絶賛されたことから、約一ヶ月間、欧米5ヶ国を回る海外調査のご褒美をもらう。
1984年 カシオ計算機株式会社退社。評価もされ惜しまれもしたが、自分のデザインの貢献度が見えにくい、価格性能優先の製品デザインに限界と疑問を感じ、デザイン性が大きく関わる仕事で勝負がしたく退社を決意。
1984年 東急ハンズ大賞「イメージ賞」。徳島県主催家具コンペ「銅賞」。二つの展覧会に応募。いずれも受賞し賞金を獲得。そして同年デザイン事務所として創業する。
1986年 法人設立。有限会社ムーヴ代表取締役就任。
1988年 以降、ニューヨークアクセントオンデザイン銀賞を皮切りにマガジンハウスデザインオブザイヤー・ギフト大賞・米国AIM賞・グッドデザイン賞十数回受賞。
2009年 株式会社移行に伴い、株式会社ムーヴ代表取締役就任。
2010年 ドイツ・ハノーバーで毎年開催される世界的に最も権威のあるデザイン賞のひとつ「ドイツIF賞」受賞。
【経歴】
【受賞歴】
【研究活動】
・環境庁及環境事業団 エコロジー研究会参画 エコロジー及リサイクル等の情報収集
・旧建設省 インフラストラクチャーデザインに対するデザイン研究
・東京都推進事業「多摩ライフ21」参画 多摩リサイクル討論会第5文科会講師
・電気自動車研究会参加・第1回第2回研究発表会にて発表依頼を受ける
・国立環境研究所 清水教授主宰P-STARTプロジェクト参画
新宿パークタワー1階ギャラリーにて研究発表/所属するグループの提案が読売新聞社より取材される
【執筆取材】
・DAIAMOND Industoria 1993年8月号 海外向け経済誌 ダイアモンドリード社
・日経デザイン 1993年3月号「プロフィール」 日経BP社
・FP 1989年1月号「時代を創る意識を持った知的向上の提案」 学研
・日経デザイン 1990年8〜9月号「誌上座談会」 日経BP社
・発明 1993年7月号「アートサロン」 発明協会
・月間ギフト 1988年6月号「アクティブインタビューMOVE北村光彦氏」